東大寺② 南大門その2(金剛力士像)

奈良が大好き、キタローです。

南大門という建物は楽しんだので、次は南大門に安置されている仏像彫刻を見ましょう。

金剛力士像(国宝)

門の左右に、向かい合って立っているのが金剛力士像です。両像ともに、高さは約8.4m、重さは6t超であり、檜の寄木造りで制作されています。10本の木材が根幹材となり、その周辺にさまざまな大きさの木材約3,000を寄せ合わせて、細部を形作っています。

金剛力士像は、1203年に、運慶、快慶ら慶派の20名程度の仏師が中心になって、わずか69日間で造立したことが、東大寺の記録でわかっています。

左(阿形) 右(吽形)  出典:東大寺HP

わずか69日で、制作できたのはなぜ?

「答え」20名強の仏師を中心に関係者が大まかなパーツを作り、現地で組み立て、調整、細部の彫り込み、彩色を行うという寄木造り手法を使ったのが理由と考えられますが、それでも、69日で完成とは信じられないですね、恐ろしい実力。

1.80cm程度のミニチュアを作成
金剛力士像を制作する際の構想や全体のバランス、ポーズ、筋肉の動きなどを確認するために、ミニチュア(模型)を作ったと言われています。

2.使用する木材で仮組
一旦寄木の木材を仮組して、その後解体。

3.大まかなパーツの準備
2の解体後、仏師たちは分担部分の大まかな形を彫り出し。

4.現地での組み立てと調整
各パーツを南大門に持ち込み、腕などを除く頭体部分の主要部材が組付けられ、門に立てられた。(ここまでで2週間)

5.現地での最終仕上げと細部の彫り込み
組み立てが完了すると、現地で表情や筋肉の細部を彫り込み。

6.彩色
全身に麻布貼りの上、錆下地(※)を施し、彩色を実施。(全行程終了で、69日間)
※ 錆下地 小麦粉と生漆を混ぜた麦漆に地の粉、砥の粉を混ぜたもの

左が阿形、右が吽形であるのはなぜ?

寺院にある多くの金剛力士像(仁王像)は、左が吽形(うんぎょう)、右が阿形(あぎょう)であることが多い中で、南大門の金剛力士像は、左右逆です。どうしてこうなったのでしょうか。

「答え」 京都・清凉寺に伝わる宋時代の版画「霊山変相図」を参考にしたのではないかと推察されています。左右が同じに加えて、図像的特色がよく似ているからです。なお、この霊山変相図は、東大寺出身の僧・奝然(ちょうねん 983年渡宋、986年帰日 989年から3年間東大寺別当)が、宋で作らせ、日本に持ち帰った釈迦如来立像の胎内に収められていました。

以前、上記のように書きましたが、間違いのようですね。ごめんなさい。「霊山変相図」が発見されたのは1954年の釈迦如来立像修理の時なので、南大門の金剛力士像制作時には参考にすることはできなかったということです。重源さんか他の関係者が宋の同じような絵図を持っていて、それを参考にしたということなんでしょう。

清凉寺「霊山変相図」
金剛力士像吽形
金剛力士像吽形

吽形(向かって右)の右足。霊山変相図と同じ。

金剛力士像吽形
金剛力士像吽形

吽形の左足。霊山変相図と同じ。

この足指や爪のリアリティはどうですか。さらに像全体に迫力があります。仏像がどんどん人間に近くなって、かつ影響力を強める武士の好みに合わせて、力強い姿になってきていることがよくわかりますね。

阿形、吽形それぞれ作った仏師はだれ?

「答え」 作風から阿形は快慶、吽形は運慶が中心になって作ったと言われていました。ところが、1989年から行った解体修理で、阿形の金剛杵の内面には、「大仏師法眼運慶」「अं〔アン、梵字〕阿弥陀仏」(快慶のこと)の名が記され、吽形の像内に納入されていた『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)の奥書には大仏師として「定覚」「湛慶」の名と小仏師12名の名が記されていました。

『仁王像大修理 (監修・東大寺 東大寺南大門仁王尊像保存管理委員会編)』によると、修理に携わった松島健氏は、「定覚と湛慶が吽形を、運慶と快慶が阿形を分担して造立したとみざるを得ない。従って、これまでの吽形を運慶、阿形を快慶の作とする説にも再考を要することはいうまでもない。」と述べています。同じく西川新次氏は、「吽形像は康慶門下の、快慶に次ぐヴェテランとみられる定覚が、運慶の嫡男湛慶を助けながら、運慶の意図を汲んで運慶風の吽形像を制作し、阿形像はもっぱら快慶の直接指揮にゆだねられながら制作が進められ、運慶はそのすべてを総括した。」と述べています。同じく西川杏太郎氏は「・・・作風からみると、従来の説の通り、吽形像は運慶風、、阿形像は快慶風が強く感じられた。・・・彫法は阿形像に比べてやや粗っぽいが、材を巧みに使いこなしており、父運慶による修正を多く受けながら、最終的により力強い造型に成功している・・・要するにこの仁王像の作者名を『運慶・快慶らの作』とコメントする教科書の記述を変える必要はないだろう。」

総指揮は運慶が行い、阿形の制作は快慶と運慶が担当であるが多くは快慶が中心となって行い、吽形は定覚(運慶の弟と思われる)と湛慶(運慶の長男)が中心になって制作したが運慶がかなり時間を使って指導して完成させた可能性が高いという感じでしょうか。

解体修理でわかったことを考慮すると、従前のように、「作風から、阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって作ったと考えられる」と言うのは不十分で、解体修理結果を反映した理解・説明が求められると感じました。

左:阿形像持物金剛杵 右:吽形像納入宝篋印陀羅尼経 (出典:仁王像大修理)

石の獅子像(重要文化財)

南大門の北面の左右に安置されていますが、存在が忘れられていることもしばしば。でも、重要文化財に指定されている獅子像なんです。鎌倉時代に重源上人が宋から招いた石工、伊行末が宋から持ち込んだ石で制作したのでないかと言われています。左右ともに阿形ですので、元々対であったわけではなく、大仏殿北中門、南中門に安置されていた対の獅子像のうちどちらも阿形のみが残り、南大門に移設されましたものと考えられます。

伊行末の作品としては、三月堂の石灯籠(重要文化財)、般若寺の十三重石塔(重要文化財)が有名です。