奈良が大好き、キタローです。
東大寺での主要なできごとをまとめておきます。聖武天皇は当初大仏を紫香楽で造ろうとしていたこと、戦火によって大仏殿は二度焼けたが、みんなの尽力で再建されたこと、空海が別当になっていたことなど。。
主なできごと
年 | できごと |
710年 | 平城京遷都。 |
724年 | 聖武天皇即位。 |
728年 | 皇太子基親王死亡。金鐘山房建立を開始。 |
729年 | 長屋王の変。光明子皇后になる。 |
733年 | 羂索院を創立。元金鍾寺(きんしょうじ、こんしゅじ)。 |
737年 | 天然痘流行。藤原四兄弟死亡。 |
740年 | 聖武天皇、光明皇后、河内国知識寺で廬舎那仏を拝する。藤原広嗣の乱。聖武天皇東国に行幸。 恭仁京(740)⇒難波宮(744)⇒紫香楽宮(744)⇒平城京(745) |
741年 | 国分寺建立の詔。 |
742年 | 金鍾寺は大和国の国分寺兼総国分寺となる。金光明四天王護国之寺と改名。 |
743年 | 紫香楽宮にて廬舎那仏造立の詔。 |
744年 | 紫香楽宮における大仏造立を中断。 |
745年 | 聖武天皇、平城京に戻る。奈良で大仏造立を開始。国中連公麻呂が造仏長官になる。法華寺創建。 |
747年 | 東大寺の寺号の初見。 |
749年 | 聖武天皇、阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位、太上天皇になる。 陸奥国より黄金を貢る。 |
752年 | 大仏開眼供養。 |
753年 | 鑑真渡日。 |
754年 | 聖武天皇他400名が鑑真より菩薩戒を授かる。 |
756年 | 聖武太上天皇崩御。 |
757年 | 橘奈良麻呂の乱。 |
758年 | 大仏殿竣工。 |
760年 | 東大寺の主要伽藍ほぼ完成。 |
764年 | 藤原仲麻呂の乱。 |
810年 | 空海、東大寺別当に就任。 |
855年 | 大地震で大仏の頭が落ちる。 |
1180年 | 平重衡の南都焼き討ちで、大仏殿など諸堂焼失。 |
1185年 | 大仏開眼供養(勧進:重源上人)。 |
1195年 | 大仏殿落慶供養。 |
1567年 | 三好三人衆と松永久秀との戦いで、大仏殿等諸堂焼失。 |
1692年 | 大仏開眼供養(勧進:公慶上人)。 |
1709年 | 大仏殿落慶法要。 |
1904~1913年 | 明治の大仏殿大修理。 |
1974~1980年 | 昭和の大仏殿大修理。 |
基本的なこと
1.聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の関係は?
甥と叔母の関係にあり、同年701年生まれ。聖武天皇の母藤原宮子と光明皇后の父は藤原不比等
で、異母姉妹。
2.聖武天皇はなぜ大仏を作ろうとしたのか?
奈良時代はまだ科学や医学が発展していなかった。そういうなかで、以下のように社会情勢が
不安定で、その解決策として、仏の威力に頼り、国を富ませ、国民全体が幸せになることを
願った。
1)天然痘の発生 735年~737年に天然痘が発生。人口500万人のうち100万人~150万人が
死亡。
2)飢饉の発生 735年~737年の天候不順により、飢饉が発生。
3)地震の発生 745年に天平地震が発生。
4)不安定な政治情勢 長屋王の変、藤原四兄弟の死、藤原広嗣の乱
3.大仏造立の詔
朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志(こころざし)兼済に存して勤めて人物を撫(ぶ)す。率 土の浜、已(すで)に仁恕に霑(うるお)うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に洽(あまね)からず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰(あいやすら)かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤(ここ)に天平十五年歳(ほし)は癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発(おこ)して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及ぼして朕が知識となし、遂には同じく利益を蒙らしめ共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易く、心や至り難し。但恐らくは、徒(いたづら)に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪(ひぼう)を生じて罪辜(ざいこ)に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各(おのおの)介(おおいなる)福を招き、宜(よろし)く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当(まさ)に念を存し各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情(こころ)に願う者有らば、恣(ほしいまま)にこれを聴(ゆる)せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾(しんじょう)して強(あながち)に収斂せしむること莫(なかれ)。遐邇(かじ)に布告して、朕が意を知らしめよ。(出典:Wikipedia)
(大意)私が天皇の位を受け継いだ時、すべてのものに慈しみをかけようと想い、人や物、万物を愛し、いたわってきた。
今や私の思いが伝わって哀れみ深く思いやりのある心があちらこちらにあふれている。だが仏法の恩恵は国中に行きわたっておらず、不安なことばかりだ。仏法の力によって動物、植物、あらゆるものすべてが心安らかに暮らせるようにしたいのだ。
この私の思いを現実のものにするために盧舎那仏を造りたい。国中の銅をすべて使い、像を造り、山を削って堂を建てることに協力して欲しい。私が持っているお金や権力を使えば簡単に仏像はできるであろう。それではただの仏の“かたち”だけで、私の思いも伝わらないし、反発する者や罪を犯す者を生み、さらに世の中を不安にしてしまうだろう。
私のこの思いに賛同し、一本の草や一握りの土といったわずかなことでも自発的に協力、参加しようと思う者がいれば共に盧舎那仏を造ろうではないか。
役人は私の思いを嵩にかけて人びとを苦しめるような行為をしてはいけない。国中至るところまで私の本当の思いを伝えることをして欲しいのだ。(出典:『もっと知りたい東大寺の歴史』)
4.大仏(殿)造立、再建の精神を表す言葉
1)聖武天皇による大仏造立時 一枝の草、一把の土
2)重源による大仏再建時 尺布、寸鉄と雖も 一木、半銭と雖も
3)公慶による大仏再建時 一針、一草の喜捨
多くの人の力を集めて、大仏を造ろうという聖武天皇の精神は、大仏再建時にも脈々と続き、今日に至っている。修二会にて堂司を担われた佐保山曉祥師が以下のような趣旨のお話をされたのを思い出した。「日本には500万~600万人しかいなかった奈良時代に、延べ260万人が関わって作り上げたのが大仏さま。今生ける我々の先祖のだれかは必ず大仏造立に関わっている。このように皆の力を結集して造り上げたものだから、兵火で大仏が溶け、大仏殿が焼け落ちても、結局再興された。これが聖武天皇が自分のためだけに作られたものなら、再興されなかっただろう。秀吉が造った方広寺の大仏が再興されなかったのを見ても、わかる。」