7/7 興福寺三重塔の公開、弁才天供が実施されました

奈良が大好き、キタローです。

7/7(日)に興福寺の三重塔が公開されましたので、拝観してきました。

現地に10:30に到着。弁才天供(べんざいてんく)中で、塔内からは般若心経他のお経を読む僧侶の声が聞こえておりました。写真のとおり、三重塔の柵内にテントが張られ、信者の方40-50名、柵の外には100名程度の方が拝観に訪れていました。

11:00に僧侶が退堂された後、三重塔の拝観の開始です。この多くの方が小さな塔の入口に集まってきましたので、当方は後ほど拝観することにして、奈良町の寧楽菓子司中西与三郎でかき氷を食べてきました。

12:00ごろに戻りますと、拝観者は10名程度で、ゆっくりと拝観することができました。

興福寺三重塔とは

1143年に崇徳(すとく)天皇の中宮の皇嘉門院(こうかもんいん)聖子が建て、1180年の南都焼討ちで焼失しましたが、鎌倉初期に再建されたと言われています。北円堂と共に興福寺で最古の建物です。高さ19.1m。

場所は南円堂の南西の窪地にあり隠れているので、その存在を知らない方が多いのが残念なところです。国宝に指定されています。

木割が細く軽やかで優美な線を醸し出し、平安時代の建築様式を伝えます。初層の組物は一手先、二・三層は三手先であり、なんと、芯柱は初層の天井から立ててあるのです。華美ではないのですが、上品な感じがするこの塔は好きですね。

御開帳日は

毎年7/7の弁才天供のみ開帳されます。

塔内はどうなっている?

興福寺HPより

初層内部の四天柱をX状に結ぶ縦板で、4部屋に分かれています。それぞれの部屋の壁には、東に薬師如来、南に釈迦如来、西に阿弥陀如来、北に弥勒如来が千体ずつ描いてあります。じっくりと見ると仏の座っている姿などを確認できる絵もあります。

東の部屋には、写真のとおり弁才天と十五童子像が安置されています。弁才天の後ろの縦板に白い模様がたくさんありますね。これが千体仏で、ここは東なので薬師如来が描かれているんですが、判別はなかなか難しいですね。

弁才天の頭上の鳥居とおじいさんは何?

宇賀神(うがじん)といい、通常人頭蛇身でとぐろを巻く形で表され、その上に老翁の頭が乗っているという奇妙な姿をした神様です。宇賀神は日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま、須佐之男命の御子、稲荷神社のご祭神で五穀豊穣と商売繁盛の神様)に由来するものと一般的には考えられているそうです。(右の写真は、喜光寺の弁天堂に安置されている宇賀神像)

弁才天は智慧・長寿・富を与える女神、宇賀神は五穀豊穣と商売繁盛の神様であり、神仏習合の流れで、弁才天と宇賀神が合一されて宇賀弁才天ができあがったようです。なお、弁才天は弁財天と表記されることの方が多いかな。東大寺ミュージアムの弁才(財)天は、弁才天と表記されていますね。

弁才天供って何?

興福寺南円堂の建立時、弘法大師空海が竣工の無事を祈り、天河大辨財天社に参籠し、そのとき宇賀弁才天を感得し、その神を興福寺に窪弁才天として勧請しました。それからは弁才天信仰が続き、現在は毎年7月7日に法要と年に1度の特別開扉が行われています。なお、弁才天像と十五童子は興福寺の旧塔頭であった世尊院に祀られていたが、明治時代の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の風潮が治まり始めた頃、三重塔に移されたとのことです。弘法大師はすごいですね、東大寺にもゆかりがあり、興福寺にも。奈良末期から平安初期のスーパースター、恐れ入ります。

この弁才天は「窪」弁才天と呼ばれますが、「窪」と呼ばれる明確な由来はわかりませんでした。一般に「窪」弁才天は窪地に祠がある弁才天ということでしょうが、世尊院は旧知事公舎のところなので、窪地ではありません。昔は南円堂の周辺の窪地(三重塔の周り)には小さな祠がたくさんあり、その一つが窪弁才天の祠であったというような説明を見たことがありますが、出典があきらかではありません。わかったら、追記したいと思います。